狐の嫁入り‐北極星の誤算‐
狐の嫁入り 北極星の誤算
1
とある女の子の話。
その子は思春期に何かに取り憑かれたように、男を篭絡させていき、私利私欲の為なら周囲の評判をも厭わない。一方、男は自分に尽くしてくれる女の子に盲目で、評判よりも女の子を信用する。否、そう躾けられる。知らず知らずの内に、自分を中立の立場と思い込む。
しかし、白昼夢は長くは続かない。なぜなら、女の子は飽き性で夢見がち。人から人への渡り鳥。定住はしない。周囲を気にしないその女の子はある意味で、一番周囲に気を遣っているのかも知れない。
なぜ、そんなことをするのか。気になっている方も多いだろう。当然、女の子には理由があり、何か行動に表している。
自己顕示欲。
恋愛依存症。
承認欲求。
もちろん、その女の子には友達なんていなくて、二人組を作る時にはクラスで大人しく、誰とでも距離を置く同姓に声を掛ける。クラスには女の子にまつわる悪い噂が広まっている。それでも、誰か心優しい人がそんな女の子の友達役を担わなくては、それは‟虐め‟と認識される。だから‟友達‟なんていなくて、そこにいるのは‟ボランティア‟だ。役職と肩書の違い。
その女の子は可愛いのかって?
美人を彼女に持っている男を女の子は難なく攻略して見せ、先輩だって容易に落とせる。君は自分が生きてきた中で知っている最強の兵器に、「可愛い」とは言わないだろう。
2
一方こちらは、なかなか結果が付いて来ないのがこの僕、高浜翔太だった。
この文数コースは一年生最後の試験で文理選択が決まる。自分の希望が例えどうだろうと、単位を落とすようなことがあっては進学が厳しくなるからだ。そこで、僕の希望は文系なのだけれど、周知の通り、英語が絶望的なのだ。
僕に言わせれば、数学は経験こそ上達の近道で暗記や発音が無い分、至極簡単な学問だと断言できる。しかし、この断言の半分は英語にも通じるのも確かだ。余程嫌いじゃなきゃ英語こそ、単語も発音も公式と同じく慣れるんだろうな。
実は英語嫌いなのかな。
辞書で調べるの、結構好きなんだけど。
問題は好き嫌いで収まれば、良いのだが‟単位が取れない‟なんてことになったら、話にならない。『数字は言葉である』という言葉がある。数学を忌み嫌う子供達にかける魔法の言葉だが、僕には意味を成さない。
「翔太。端的に言って、文系には行けなかった。最後のテストこんなに頑張ったのにねー。まあこの頑張りは理系でも通じるから、肩を落とすなー。上げてけアゲてけ」
なんて先生から言い渡された時は、悔しかったけれど、それでも文系科目で受験できない訳でもないし、まだあと一年残されている。事実は事実。今自分にできることをしていけ、高浜翔太! まずは松本にLINEしてっと。
そして先に面談が終わった嬬恋は文系だった。元々客室乗務員の夢があるらしく、僕の苦手な英語に関しては未来創造コースの落ちぶれた生徒よりも模試の成績が良く、英検も2級を持っている。僕はそんな嬬恋と島崎に教わっていたが、結果があえなくなってしまったばっかりに、少し連絡、もとい報告するのが憚れる。僕も文系に行きたい旨は伝えてあるので、この結果を知れば悲しませてしまうのかな。あの人、二年生も一緒のクラスになれるって本気で信じていたからな。
そもそもなぜ理系を嫌厭するのかと言えば、それは問題に心情が無いからだ。文章の向こうにはそれを書いた誰かがいるはずで、その心を理解するのが文系科目の醍醐味だ。だから文章問題は得手不得手をさて置いて、好きである。回答欄に数字や記号を記入する虚無感を僕は対処できずにいる。
『私も今面談終わったー。こっちは一年生から文理別れていたから、親身になれないかも知れないけど、まあ頑張って!』
…そうか、別に心配されたくて送った訳でもないけれど、何だか一言で済まされたなぁ…。今この時間は春休み一週間前の面談週間で授業が5時間目で終わり、もう既に皆春休みムードだ。もうテストもないので、いつもの授業に必死にならなくていい。さて、次の人呼びに行くか。確認したところ、志賀さんだった。
「…」
先程まで志賀さんは教室の前に3つある椅子に座って、スマホをいじっていたのに今見るといなくなっていた。僕が5番目で次の志賀さんで最後なので、誰か前倒しにもできない。トイレかなと思いつつ、先生に「探してきます」と言い、他のクラスの待機している生徒と話している可能性に賭けて廊下に探しに行く。ここで「志賀さーん」なんて大きな声出すと他のクラスの面談の邪魔になるし、LINEで『次志賀さんの番ですよ』と送信すればいいのだが、生憎僕は志賀さんの連絡先を持っていない。他のクラスの生徒は皆揃っているようだし、誰かと誰かが話している様子もない。廊下を進み切ったので折り返す。
思えば志賀さんとよく話したことない。クラスに何人かいる‟よく分からん人‟だ。自分から積極的に話す訳でもないし、逆に誰かから話しかけられているのは、嬬恋以外で見ない。最近は志賀さんと話す割合より僕に寄ってくる時間の方が多くなってきた。そう言えば、嬬恋が前に、「違うクラスに友達がいる」とか言っていたような。僕は同じ中学出身の知り合いが他のクラスにいるが、部活に所属していないので、教室の外に出ると友達は少ない。向こうはどう思っているか知らないが、その知り合いもあんまり話す仲でもないし、いないと言い切ってしまってもいい。学校で教室に友達がいないと言うのはやっぱり寂しいものなのか。
本当は、よく笑う人なのかも。
本来は、誰かと話したかったのかも。
実は、誰かに恋しているのかも。
などと、よく知らない人に「もしかしたら」を言い出したらキリがない。教室に志賀さんがまだ帰ってきていないことを確認し、「もう少し探します」と告げ、僕は階段を上って、上の階に捜索のエリアを広げる。もうここまで来ると、面談を忘れて帰った可能性が出てくる。というか、実際そうなのでは? と疑ってしまう。僕も夏休みの面談は忘れて帰り、家にいながら『面談始まるよ』とLINEを貰った経験がある。なので今回は初日にして貰っている。そんなことをつらつらと考えながら、階段は折り返し地点を少し過ぎ、上の階が見え始めてきた。本来、上の階はパソコン室と美術室と机と椅子が一つずつ無造作に置かれている小さいスペースしかない。ここで待つのなら、下で待てばいいのに。すると、何やら話し声が聞こえる。こういうのって聞いちゃってもいいのかな。でも、ここで待ってるの恥ずかしくない? 大丈夫かな。怪しいヤツと思われたら、僕の評判をどう補填してくれるのか。
なんて思っていると話し声が止んだ。大方、廊下で電話が掛かってきて、その場で取れずに上に行ったのだろう。
「次、志賀さんの…」
「聞いてた⁉ 今の話」
僕の顔を見るなり、血相を変えて顔面すれすれまで詰め寄られた。
「いーいやいやいや、全く! 何も聞いてません」
驚きのあまり上擦った声で答えてしまった。実際、何も聞いてないし、そんなに大事な電話を遮らずに待っていて本当に良かったと胸をなで下ろした。
「ならいいんだけど、…今行く」
「う、うん。先生待ってるよ」
スタスタと行ってしまった。
「……礼くらい言えよな」
ボソッと僕にできる最大限の抵抗をする。
3
「それであの…急だったね。学校で僕に言ってくれても良かったのに」
僕はこの日、嬬恋に呼び出されて告白というか宣言に近しい類の会話をした。集合が掛かったのが、終業式が終わって僕は制服のまま数時間、くつろいでいた最中だったので、なりふり構わず制服のまま自転車を漕いだ。
「あら。誰に話しかけているのか分からない。名前で呼ばれなきゃ分からないなー」
ノリノリの嬬恋、いや一花だった。普段と変わらないトークだが、二人とも肩書きが変わってしまえば、今まで意識してなかったところも意識してしまう。
「い・ち・か、学・校・で・言っ・て・く・れ・て・も・良・かっ・た・の・に」
一音一音の間に力が入り過ぎた。思わず、おもてなしてしまった!
「翔太、慣れないからか、棒読みどころかつまずきながら話してる」
何で
「というか別に、二人しかいないんだから、誰に話しかけてるか分かるでしょ一花さん」
流石、僕。正論だぞ。よく言った。
「そう言いつつも私の名前を呼び続けてくれるのね」
時と場合による、それは。
「一花、ここでいい?」
僕は今、待ち合わせた交差点の公園から一花の家まで送っている最中だった。公園は家からかなり近く、あまり人目に付かない。勘違いしないで欲しいが、別にいやらしい意味とかない。終業式が終わって浮かれてる高校生がたむろしない、ナイスチョイスだった。
「うん。ありがとう翔太」
僕こそ、感謝の意思を表さないと。
「一花、今日は…」
僕が鈍感とは言えど、こういうのは察せるものだと自信があった。ついさっき無くなったけれど。
「あーそういうの…いい、いい。そういう空気あんまり、好きじゃないからさ」
あ、そう。そうか。そういうのも知っていかないと。経験値だ。
「…私、まだ子供かな…?」
「そんなことない。そんなことないよ」
日が暮れる。3月も末とは言え、まだ日没時間が早い。
「でも、15、6ってまだ子供なのかな。未成年ではあるし」
何もする予定はないけど、まだまだ少年法が適応されると信じている。それにまだ心霊系怖いし、UFOは実在すると信じている。
「そういうこと言ってるんじゃないって、分かってるよね? それを言うなら私は、UMAとして往々にして語られる雪男とネッシーとツチノコの中で、一番いる可能性が高いのはツチノコだと信じてる。」
「どうしてそんな無責任なこと言えるんだよ。ネス湖の盛り上がりも、岐阜県東白川村のつちのこ資料館だって同等の熱量持ってるし、ここまで来たら『いない』と断言する方が失礼みたいな風潮だぞ。大体何でそう言えるの?」
UMAブームが過ぎ去った後でも、細々と、しかし脈々と活動していらっしゃるではないか。
「ツチノコは可愛いもん」
「辛辣か! 確かに雪男とかネッシーは可愛くはないけれど!」
雪男はただの二足歩行をするゴリラだし、ネッシーに至ってはただの首長竜か。二足歩行ゴリラが可愛い訳がないし、ネス湖の首長竜は実は巨大ウナギだと言う説もあるし、確かに然りか。
「いやでも、ツチノコだって爬虫類だし実質オオアオジタトカゲじゃん。というか可愛いが理由になるか!」
「食べ過ぎたバンクシオプスを見間違えたかもね」
「何だ、それ?」
聞いたこともない。恐竜か何かか?
「白亜紀に絶滅した両生類」
「分かるか! せめて知ってるヤツで来いや!」
こんなに話せる人だ、というのもつい最近知ったんだなとしみじみ思う。僕は知らなかったけれど、松本ならバンクシオプスは分かるのかな。第一、僕のオオアオジタトカゲだって伝わらなかったかも。
「あーそうだ。一花にはまだ言ってなかったけれど、僕文系行けなかった」
今言うタイミングではないかも知れないけど、折角会ったし。言い辛いことは言っておこう。
「はぁ⁉ 私達がいながら? 来年ももしかしたら一緒になれるかも、って思ってたのに?」
思ってたのは勝手だけど、期待はしてくれてたんだ。残念なことしちゃったな。みんな勉強手伝ってくれていたけど、僕の力不足が原因なので僕のせいです。相当落ち込んでるな、皆は悪くない、自分を責めるんじゃないぞ。
「ごめん、僕の力不足でした…」
「私とのキャンパスライフをどうしてくれるの?」
キャンパスライフ?
「というか、私が一番じゃないの?」
それは残念ながら松本だ。
「それは飛躍しすぎだ。待て待て、まだ僕が文系の大学に進める道だってあるんだぞ。勝手に諦めるな一花」
キャンパスライフまで想定していたのか、でも高校卒業した後の遠距離恋愛ってどうなるのか想像できないな。
「そうね、行事という行事、休みという休みをフルに使ってキャンパスライフの補填をして頂戴ね翔太」
望むところだ。僕にでき得ること全てしよう。
「そうだね、そうさせて貰うよ」
4
一花を家まで送り届けて、僕はどこにも寄り道せず、真っ直ぐに家路に就いた。晩御飯を食べ、宿題がないこの長期休みを満喫する決意を固め、今日はあまり夜更かしせずに寝た。
そんな春休み最終日。いつしか長いと思っていた休みも、最終日を迎えると短いと思ってしまう…? そんなことはなく長かった。今日も今日とて、いつもと変わらないクオリティの朝食を残さず食べ、僕はもうクラスが別々になってしまうかもしれない男子友達数人で、カラオケをしに自転車を家の裏から取り出す。僕は乗るとき毎回タイヤの空気圧をチェックする。たまに驚く程抜けている時があってパンクしたかとひやひやする。通学路には地面の凹凸が激しい箇所がいくつもあって、いつパンクしてもおかしくないと思っている。それでもこの自転車は中学時代を支えてきてくれたかけがえのない自転車だ。空気圧も問題ない。家を出る。
「行ってきまーす」
その数時間後にカラオケボックスから出て、友達と別れた後、二週間しかない春休みをどれだけ満喫しようと、来年一花が隣にいないクラスに僕は慣れることができるのかと不安になってしまった。自分のメンタルの弱さに不甲斐なさを感じる。一花もきっと同じことを思っていてくれているのか分からないけれど、分からないけれど、思っていてくれていたら嬉しい。
僕の長期休みなんか文面に起こすとこんなもので、実に中身がない。皆、休みに喜ぶけど、昔から「つまんないな」と一番に思ってしまう人だった。父親も母親も働いているし、高校生の財源だって限られている。皆と夏休みに一泊二日で温泉に行こうと約束したし、平日はただ読んだ漫画を読んだり、ゲームしたり。新学期の不安よりも皆に会える喜びが勝ってしまっている。
「それで電話してきたのですね。そりゃあびっくりしましたよ。一丁前に彼女との距離感を感じてるんですもの。それが普通ですけどね、電話する相手は私じゃあないでしょうに」
僕は寂しさを誤魔化す為に一花にではなく島崎に電話を掛けていた。僕だって一応理由はある。
「だって、一花って一人暮らしで添削のバイトじゃん。電話を掛けていいタイミングが掴めなくて」
一花は親の残した貯金と添削のバイトで、公営アパートの家賃含め生活費に充てている。一花の貯金が大学進学まで持つか否かはまだ聞いていない。
聞けていない。
それでも僕のキャンパスライフまで想像してくれていたのは、ありがたいことだ。
「そうですか…。僕は暇さえあれば掛けていましたけどね。どっちが本当に愛しているのでしょうかっ!」
…愛が重い。
「それはきついだろ。どんな生活してるか考えろよ」
きっと僕達が思う何倍も大変なのだろう。
「…くっ。確かに何回も着信拒否がありましたけど、それって忙しかったのか…」
恋は盲目とはよく言ったものだ。それでも、盲目の方が‟楽‟なのかも知れない。
「あー。そんなに心配しなくてもいいのに。私だって空き時間くらいあるし、世の中って言うのは結構セーフティネットが張り巡らされているもんなのよ。今の私の家も市役所次第、あと何年住めるか分からない」
そうだったのか。実家から出たことがない僕には、知らないことばかりで、この関係が何年も続けばいいのにと思っていたから、少し固まった。
「でも心配しないでって。私自身そこまで忙しくないし、ここだって、私が長年頼ってきている人だから、いくらか私の意見も取り入れて貰えるはずだから。バイトの時給だって上がるし、外で働けるようになれば高収入になるから」
僕は信じることしかできない。きっと彼女は僕からお金を借りるようなことを凄く嫌うだろう。どうしようもなく僕達の間に亀裂が入ってしまいそうで、口に出すのも憚れる。
「そっか、じゃあ勉強して絶対合格しなきゃ、だね」
いつしか、彼女の夢に回り道は許されなくなっていた。
「ねぇ、名前、呼んで」
島崎と電話した後、一花に『今、電話しても大丈夫?』と一言掛けた。それでも既読が付いてから、少し間が開いて『いつでもどうぞ』と返事が来た。家事かな、バイトかな? どちらにせよ、恐らく忙しかったのだろう。それでも一花は自分を普通の女子高生に見てもらいたいのだろう。ベッドの上で電話くらいなら、いつでも待っている普通の女子高生に。
忙しい女子高生だって普通だよ?
松本なんて大体連絡付かないよ?
けれども、それが一花の願いならば、とやかく言わないでおこう。
僕が言うのは名前くらいで十分だ。
「おやすみ、一花」
「おやすみ、翔太」
「明日会えるの、楽しみにしてる」
5
そんなこんなで、今日から始まる二年生。今年はゴールデンウイーク前の体育祭、シルバーウイークの修学旅行があり、イベントが目白押しである。そのイベントを共にするクラスメイトに一花はいない。去年、一年生の時には席替えする度に隣の席になり、皆からは‟夫婦‟のような扱いを受けて、晴れて恋人となった僕と一花は別々のクラスになった。今思えば、あの担任の面談軽すぎるよな…。あの担任ともクラスメイトともお別れか。こういう気持ちは本来終業式で、思うんだよな。僕は自転車を裏から引っ張り出し、カバンに宿題を入れたのを確認して、家を出る。
そう言えば、今日から僕は先輩になるんだ。どの部活にも所属していない僕ですらそう思ったのだから、松本は嬉しさとか期待とか、もしかしたら責任感とか感じちゃってるのかな。「松本先輩」とか言ってみよう。「先輩」とか中学以来言ってもないし、言われたことない。中学校の部活の後輩とかここに入学したりしないかな、久々に言われたいなー。なんて思いながら、校門をくぐり駐輪場まで到着する。昇降口のクラスの張り紙を確認しに行きたいけど、人だかりが凄いし、誰か友達にLINEすれば分かるんじゃないか。こんなにテンション上がらないクラス替えは初めてだ。おっと、時間が迫ってきたので、早々に張り紙の下まで走っていく。3組と確認して、クラスの前まで来て座席表をを見る。
「…」
鈴木がいなかったのが運の尽き、高浜の前は志賀だった。
何か、気まずい。話しかけるなというオーラを感じずにはいられない。
教室の後ろでは同じクラスだったのか、部活が同じだったのか、既に‟固まり‟ができ始めていた。そういう人達からは取りあえず距離を取りたくなる。同じスタートラインに立っていないという心の距離を感じる。それでも僕だって、一年生の時に同じクラスだった人と集まってしまうだろうな。先程は時間が無くて、張り紙をよく見ていなかったので、皆がどのクラスに配属されたかは分からない。もしかしたら、知り合いがいるのかも、と周囲を見渡すが、結果は残念。そりゃいたら一声掛けてくれるよな。今日は昼ご飯食べないで帰るので、皆とは会えないのが寂しい。一花には連絡しようかな。LINEで『今日一緒に帰れますか?』と送信して、同時にチャイムが鳴り、新しい担任が号令を掛けた。言っていなかったが、一花は四月に定期を更新しなかった。貯金や諸々のお金を計算して、下した判断だ。当初は私も自転車にしようかな、と言っていたが後日聞いてみると『二人乗りできなくなるからやめた』と言われた。僕自身あれは警察見つかったら、と考えるとなかなか怖いので二度とやりたくない。
始業式、春休みの宿題の回収、係り決めを終えて今日は解散となった。今日からまた始まる期待と不安と、前の席の人で頭が一杯になっていた。
6
今日でこのクラスに決まってから、ひと月と二週間経った。席が隣の久保と久保の友達の赤間とは、よく話す仲になって休み時間も共に過ごしている。何でも二人は幼い頃にピアノ教室で知り合って、このクラスで再会したという。僕はもちろんピアノから何まで楽器系統は扱えないので、尊敬する。
「よく左右で違う動きができるね。どっちが利き手とか分からなくなるんじゃない?」
「左右で違う動きだけど、目的は一つだから頭の中で混同しなければなんてことないよ。いきなりやれって言われれば難しいだろうけどさ」
「そういうものなんだねー」
このクラスには相沢や赤井がおらず、赤間が出席番号一番なので、基本的に席が近い久保と話している。久保は頭が良く、未来創造コースを受験したのだが結果がそぐわなかったようだ。どう考えても島崎より頭が良さそうなのに。
最近の島崎なんて、クラスに一つある空席に超かわいい転校生が来たらどうしよう!という趣旨のLINEを僕に送信して、僕は初日に来ない転校生なんていないんじゃないか? と真剣に考察して返信したら、何週間か後に本当に来たらしく、僕も驚いたがそれ以上に島崎が驚いていて、「かわいいというか綺麗です。もう本当に高校生か疑われるくらいなんですよ」とありえないことまで言うようになってしまった。ここ最近島崎は一花が好きというより、ただの発情期なんじゃないかと思ってきた。
そんなことはどうでもよくて、事件は今日の昼休みに起こった。いや、起こっている今。困っている僕は今。
「え、だから高浜って志賀さんと同じクラスだったんだよね? ねぇ志賀さんそうでしょ?」
実は久保は空気が読めない。よりにもよって今発動するのか。今まで私に触れるなオーラを感じてきた僕は、そりゃあ必死に‟意識しないという意識‟を持ってきていた。しかし、どこから情報が漏れたのかこんな惨状に繋がってしまった。
「いやー実はそうなんだよねー。今年もよろしく志賀さん! 僕のこと憶えてる? 嬬恋一花と仲が良かった高浜翔太だよー。僕は志賀さんのこと憶えてるよ。志賀絢女さん」
こういうのはひどいな、でもこっちから突き放すのは違うよな。
「実はそうなんだ。今年もよろしく」
よし、これで行こう。おのれ久保、焦るわ。
「実はそうなんだ。今年もよ…」
「違うよ」
え、違うの? 何でそんな戦略のない嘘付くの? 頭の中がクエスチョンマークで一杯になってしまう。この空気どうするの?
「え、そうなの? じゃ別人だったのかな…。確かに自己紹介の時去年のクラス言ってなかったしな…」
そうだ、久保。別人だ、君の勘違いさ。
「そ、よろしく。久保くんだっけ?」
「うん、よろしく…。志賀さん」
凄い、志賀さんがその気にさせているのか、久保が信じやすいのか。どうであれその場しのぎにはなった。いや、別に僕は志賀さんから避けなきゃならない訳ではないのだけれど。久保があれ…? と首を傾げている間にどこか行ってしまった。僕もそろそろ行くかな。
「どう島崎、今日こそ声掛けられたの?」
お昼は今年から外のベンチになった。去年のようなどこか教室に行くことはなくなった。皆別々のクラスだし、注目されることもないしね。
「ちょっと、あんまり飛鳥をからかわないでね」
松本はなぜか仲良いんだよな、クラス別なのに。
「いや、まだです。席結構離れてるんですよ、もう無理ですよー」
「早くしないと取られるかもね。私みたいに兎に角ぶつかればいいんじゃない?」
「飛鳥結構モテるらしいけどね」
「僕まだ見たことないかも」
「じゃあ今度見に来て下さいよ、いい人ですよ。顔立ちだけじゃなくて所作もきれいです」
「そう見えるよねー」
「ん? 何か言いました?」
「ううん。分かるよって言ったの」
「明日、体育祭の準備だから一緒に帰れないかも」
来週の水曜日が体育祭で、その準備期間が明日から始まるという。辛い練習や方向性の違いによる喧嘩などはない。ただその日を迎えて、和気あいあいと楽しく午前授業で終わるだけだ。一花は体育祭実行委員になったので、準備をしなければならない。
「あ、そう。でも待つよ?」
準備にそんなに時間が掛からないだろう。暇を持て余している僕は待てるし、待ちたいのだ。
「じゃあ、待っててもらおうかな」
「任して。島崎、その日暇?」
「じゃあ一緒に見に行きましょうよ」
「転校生? いいよ。その日部活無かったよね? 松本も行こうよ」
「いいけど、本当に失礼のないようにね」
何でそこまで気にしているんだろう。ガラスのハートだったりするのかな。確かに島崎、遠慮ないからな。
「見るだけだから、ね、島崎?」
「そうそう、まだ話せる訳ないじゃないですか」
7
その後、島崎が松本の紹介で、僕達が陰から見ていたところを呼び出され、話していた。その様子を見ていると一花からLINEで『まだ掛かりそう、これ以上待たせるのも悪いし、先帰ってて』とのことだ。時差でハートのスタンプも送られてきた。そこまで言うなら帰ろうかな。きっと一花は、自分の為に人が苦労するのを経験したことがないのだろう。あるいは本当に遅くまで掛かるのか、だとしたらよく委員会に入ったな。僕が入った掲示物係りとは大違いだ。周りを見ると人がいなくて閑散としてる。まだ明るいのにこうも静かだと、自分がここにいていいのか不安になる。
「…うん。教えてくれてありがとう。ううん、困ってなんかないよ。大丈夫だから。それじゃあ、また」
「参ったな…」
昇降口に向かう為には僕のクラスの前を通る必要があって、決して故意じゃないことをここで述べておく。このあとで言うことになるんだけど。
「志賀さ…んかな」
そこにはもっと誰かいてもいいはずの教室に、たった一人、ドアに寄りかかって電話している志賀さんがいた。一部ガラスのドアからは、肩甲骨から頭までしか見えないけれど、後ろ姿と声からして志賀さんで間違いないようだ。誰にも入られないようにドアに寄りかかっているのだろう。僕はあれこれ考えながら立ち止まってしまったことを、すぐに後悔することになってしまう。
「あれ、高浜じゃん。どうしたの立ち止まったりしちゃって、入るなら入れよ。もしかして忘れ物? 俺もなんだよ、数学のワーク間違っちゃってさー。宿題出てるのⅠじゃなくてAだったわ」
久保が昇降口の方から歩きながら、大声で話しかけてきた。
宿題なんて出てたんだー。
僕寝てたから分からなかったわー。
ありがとう、教えてくれてー。
と、いつもならいつも通り言っていたが、非日常がすぐそこにあることを彼は知らない。
「待って、」
「ん? どうしたのー?」
近い、あと二十歩で教室に着いてしまう。咄嗟に待ってと言ってしまったが、待ったところで僕に何とかできるのか? それにこの男は何で待ってくれないんだ…⁉
すると、教室でガタッと物音がした。恐らく久保の接近に気づいた志賀が何かをどうにかしたのだろう。ここで振り返るのはあまりにも不自然で、存在を感付かれてしまうので確認はできないので、志賀さんの行動に期待するしかない。
「どうしたの高浜。早く取って宿題しないと、明日だよ?」
「う、うん、ありがと。宿題のこと寝てて聞いてなかったわ…」
「そう言えばそうだったな! ここにいて、良かったじゃん!」
端的に言えば良くはない。志賀さんとの関係は悪化の一途を辿っている。
久保は遠慮せずにガチャとドアを開けた。そりゃあ何も知らないんだから遠慮も何もないが。僕も恐る恐る入った。
「あれ…、ロッカーかな」
「ロッカー⁉」
机を先に漁った久保はロッカーにあるのかな、という意味しかない「ロッカーかな」なのに過剰に反応してしまった。もう志賀さんに合わせる顔がない。僕も机に入ってなかった。あれ…どこに置いたっけな。
「あったわ、あった」
久保はロッカーにあったようで、僕もロッカーを探したら発見した。
「じゃ、鍵持って、行こ。高浜も忘れたから鍵開けてたんでしょ? 先に職員室に行って損してきたんだー」
教室の鍵は大分まずい。具体的に言えば、ロッカーに隠れている女子が一人飢えるくらいまずい。それは何とか阻止せねば!
「赤間も来るらしいよ、数学Aは持ってたんだけど、生物を忘れたらしいよ」
口から出まかせとはこのことだ。少し具体性を持たせてみた。
「ふーん、そっか…。生物って宿題出てないけど、取りに来るんだ…」
ジーザス。
「いや、テスト勉強じゃないかな? ほら、テスト近いし」
「テスト近くはないよね、ほら、一か月はある」
スマホのカレンダーを見せてもらった。本当だ。僕の記憶力というかスケジュール管理能力だな、問題は。
「でも、テスト一か月前よりもっと前から勉強するタイプなんだよ。じゃなきゃ取りに来ないでしょ?」
「確かにそうだね。俺も持ち帰ろっかな」
ふうー。何で今に限って信じてくれないんだ。ドキドキしたわ…。
「じゃ、俺こっちだから。赤間によろしく言っといて」
「はいよ。バイバイ」
手を振って久保は帰っていった。教室を出てすぐの所で分かれたので、掃除用具ロッカーから志賀さんが出た音が聞こえた。
「ゲッホゲホ」
埃臭かったのか、咳をして制服を払っている。よく十分もの間、物音立てずに隠れていられたよ。感心すら覚える。
「高浜、お前って奴は…」
まだ咳込みながら、言う。
「ごめん、未来創造コースから帰ってきて、たまたまここを通りかかっただけなんだ。断じて悪気はないし、話の内容も聞いていない!」
少し聞いたが、あれは不可抗力ということで、総合的には聞いていない判定になっている。
「何でいつもいつも、タイミングよく現れるんだ! はぁ、焦らせやがって…」
愛想がないのは仕方ないけど、口調は怖いな。本当に大事な話だったんだな。
「だからごめん。でも困ったことがあるなら、相談に乗るけど…」
たまに、一花の件や松本の件で僕にもっとできた事があったんじゃないかと思う。特に思うのは、早く相談に乗っていれば松本は一人で背負いこむことがなく、皆で対処できたんじゃないかということ。松本の場合は一人で何とかできたようだけど、それはあいつが特殊なだけで一花や島崎、僕なんてきっと誰かに頼らなきゃ解決できないだろう。
「私がいつ、‟助けて‟なんて言った⁉ 邪魔だから、さっさと帰って」
一理ある。
「でも、どうして‟こっち‟を向かないんだよ」
もう隠しきれていない。声は途中から涙ぐんだ声になってきて、肩も小刻みに震えている。
プライベートなことに踏み込んで、
抱えている問題を更に広げてしまうかも。
あるいは、僕に話したところでどうにも手出しができない問題なのかも。
ヒーローは、関わっても差し支えない問題ばかりに突撃して行っては解決して、かっこいいヒーロー像を崩さない。実際の一般人は、安易に首を突っ込んではいけない問題を抱えているケースもあるよ、と提示するべきだ。第一、ヒーローに頼る前に誰かに相談しているだろうに。
だからなのか。志賀さんに構ってしまうのは。
この志賀絢女はきっと、およそ友達と呼べる人間がいない。知り合いならいるとして、折り入って相談をする仲ではあるまい。そもそも一花以外に話している姿を見たことがないのだから。一花が前に言っていた「他のクラスに友達がいる」という話は、女子同士で話す時の見栄であり、虚栄なのだろう。
お昼ご飯は皆で食べた方が美味しいに決まっている。
「なぁ、話してくれよ。楽になるらしいから。個人名とか団体名は伏せても構わない。何もかも全部、フィクションで行こう」
これで話してくれるのかは、微妙と言ったところだ。それもそう、素性も知らない異性の何を信用して隠している話をするのだ。ヒーローだってヒーローを知らない人からしたら、きっと固まってしまうだろう。要は信用の話だ。
「分かった、これでいつでも学校に『いじめられています』と電話してくれ。直ちに先生が二階からやって来て、僕を羽交い絞めにするだろう。もちろん将来だって危うくなる」
僕は学校のホームページの「お問合せはこちら」を検索して、電話番号が青く表示されたスマホを渡した。正しくはそっと足元に置いた。担保として、対抗措置として。涙目の女子高生は現行法すらも貫通する力がある。男子諸君。残念ながらそれがこの世の真理だ。
志賀さんはそっとしゃがんで、僕のスマホに手を伸ばした。彼女は気付いていないようだが、掃除用具ロッカーはドアの近くにあり、現在彼女は、僕がドアから出る進路を塞いでいる状況にある。そろそろ辺りも暗くなってきた。僕の親はともかく、志賀さんの親は心配しているんじゃないか。それに、一花が何かの間違いでここを通ったら、僕はどうしたらいいのか。どうやら急がなきゃならなくなってきた。
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「…もし、私が今すぐに、何の躊躇いもなく、ここに電話してそんなことを言ったら、止めるでしょ。否定するでしょ。だって証拠がないもの。私が泣いてるからってからかってるの?」
残念ながら、女子高生の力では男子高生の腕力に太刀打ちできないのも、この世の真理だ。一方で、一花は握手で相手を挑発する時によく使われるゴリゴリゴリと相手の手を揉む、あの行為を表情変えずにやってのける怪力の持ち主だ。この春行われた体力測定では僕の記録を超す握力を見せてくれた。腕力は敵うかどうか知らないが、相手にしたくないのは確かなようだ。
「止めはしないし、否定もしない。それに電話して要件を伝えさえすれば、僕の人生、取り返しのつかないものになるだろう?」
それはそれで一理あると認めたのだろう。少しの沈黙の後に彼女はこちらを向いてくれた。
「何? 私のこと気になってるの?」
「違うわ。初対面で言い寄られて、二回目に話した時は嘘付いて、それでどうして僕が好きにならなきゃいけないんだ」
対面の嘘ならまだしも、久保を巻き込んでいる時点で、いつバレてもおかしくない。不安の種だ。バレてでも見ろ、更に意味深な二人になってしまうだろう。
「ふーん。てっきりそういう人かと思った。あんなに突き放したのに、私を付きまとって」
「付きまとってないって言ってるだろう! 通りかかれば、偶然意味ありげな会話をしているんだよ。その度に申し訳なくなってくるわ!」
‟そういう人‟って何だ。そういう意味か。まさか、ああいう意味じゃないだろうな!
本当、僕どんなイメージなんだよ。
二日は凹むぜ。
「返すわ、これ」
僕のスマホを投げて返した。まだ画面は明るい。画面が閉じてしまってパスワードが分からなくなった訳ではなさそうだ。しかし、なぜ返した。これは意味があるスマホなのに。
「私の信用。別に話すこと自体は構わない。ただ、あなたが他の誰かに話して言いふらすのは止めて欲しいの。それが私の話す条件」
つい先程、誰かに話せば早く解決できたとか何とか言っていた僕は、縛られた。呆気ない。がっかりしただろう。
「どう? 呑み込める? それとも難しいかな、正義の味方からしてみれば」
正義の味方だとは言った覚えはないが、それでもどっちかと聞かれれば正義サイドにいて間違いはないだろうが…。苦渋の決断の末、今回だけ僕は悪になった。
「分かった。志賀からの信用を受け取り、僕は悪の味方になろう」
「じゃあ、話すね」
9
その時丁度、僕のスマホから着信音が鳴った。
「はい、今、坂の下のコンビニで物色していました。はい、今から帰りますので…」
母親だった。僕の帰りが遅くて心配して電話を掛けたらしい。それもそのはず、もう周りは暗く、僕らの暗順応がお互いを認識しているだけに過ぎず、街灯の光も届かないこの場所で異性の同級生と共にいるというのは、文章にすると犯罪性が増してくる。
これでは学校に電話しなくとも捕まってしまう。
「お母さん?」
「うん。折角、話す気になってくれたみたいなんだけど、明日でもいいかな? 明日もまた体育祭の準備で一斉下校だろうし」
親には逆らえない。でも、こういうのは即効性があって初めて成り立つ関係だったりするのか? それでも、僕には電話を選択肢に入れなかった明確な理由がある。
「私が心変わりして、あなたのことまた無視し出すかもよ? それか話す気がなくなったりするかも」
それでも。
「それでも、僕は志賀を‟信用‟したし、志賀は僕を‟信用‟してくれた。急を要するようなら、ロッカーに隠れて時間を浪費することはしないだろう。それに、また明日会えるのを楽しみにするのも、なかなか良いものだよ」
心変わりはしないだろうと確信しているけれど、急いでいるかはイチかバチかだった。
「そう、確かに急いではない。分かった、明日会うのを楽しみにしてる」
その日の帰り道、僕はこのことを一花に伝えるかどうか迷った。間違いなく一花と志賀は仲良さそうに話していたし、それが上っ面だけの表面上の付き合いでも、僕達以外の人と一花が笑いながら話しているのを、僕は見ていてとても幸せだった。だからと言って、志賀は他の誰かに聞かれるのをひどく嫌がっていた。多分それは、例え友達だとしても同じだろう。志賀は一人で抱え込みたかったのだと思う。
だから今、自転車を全速力で漕ぎながら、他人の心を無理やりこじ開けたことを後悔している。
思い上がっていたんだと思う。
変な使命感を持っていたんだと思う。
しかし、困っている他人の、残念そうな顔を見ていながら何もできない人間を前にして、後退することなんてできなかった。
そんな一人脳内反省会をしながら家路に就いた。
翌日、昨日と同じ轍は踏みたくない、去年私が電話していた場所に待ち合わせね。一緒に行くとあなたも大変でしょ? と言われ、時間差を作って上の階に上がって行った。上の階に人は滅多に立ち寄らないらしい。かく言う僕も、志賀を探しに行った時初めて足を踏み入れたのを思い出した。更に、構造的に上の方まで上って来なければ、藩士越えが聞こえないようになっているらしい。どうやってそれを確かめたかは知らないが、そうと言われればそうなのだろう。よいしょっと。階段を上り終えると、先に椅子に座ってる志賀がいた。
10
「さて、どこから話しそうか…。
「出会いから話すのが定石かな。それとも簡単に、私のことをまず知って貰わなきゃ始まらないかな。
「私の名前は志賀絢女。2000年9月27日生まれのO型。好きな食べ物は特にないけど、嫌いな食べ物はグリーンピース。趣味はアニメを観ることかな。人前では『音楽を聴くこと』にしてるけど。
「だって、誰だって自分がオタクだ、ってバレたくないでしょ? まぁ、それはどうでもいいんだよ。
「もう一つ趣味があってね。何だと思う?
「うーん、ハズレ。
「正解は、人の名前を見てあれこれ考察すること。小学生の頃に道徳だか総合だかの時間に、自分の名前の意味を調べたでしょ。私は自分の名前の意味を知った時とっても嬉しかった。
「絢女。そのままの煌びやかで美しい女の子、だけではなくて、‟絢‟の‟旬‟の字が太陽を包み込んでいる形だからって、包容力のある人になってね、って。太陽を見るといつでもあなたとあなたに込めた‟願い‟を思い出せるように、って付けてくれたの。
「褒めてくれてありがとう。そう、良い親でしょ。私の自慢の親。これを話したのは三人目。今、あなたに。そして去年一花に。そして、中学生の時に佐絢に。
「佐絢は中学二年生の時に同じクラスになって、自然と友達になっていった。昔からあまり人と接するのが苦手だったから、気付いた時には友達になっていたのは嬉しくて、驚いて、とにかく感動したの。きっかけは名前の話だった。中三のクラスも一緒になって嬉しかったけど、私達は仲違いすることになった。
「同じクラスにいた男子に佐絢が告白されて、付き合うことになったの。素晴らしいことだし、私も初々しい二人を見ていて幸せだった。ずっと続くと思っていた。でもそうはならなかった。
「佐絢が振られて、本当に好きなのは私だって言われた。
「私は佐絢と付き合っているその男子としてしか見ていなかったし、それまで意識したこともなかった。誰? って思ったよ。それに、佐絢を踏み台にして私に近付こうとした人間が、どうして私の傍にいられるのか分からなかった。
「謝れ。
「佐絢に謝ってからここに来て。それから振ってやる、って言った。その時は真剣に怒っていたし、呆れていた。
「良い嘘とか悪い嘘なんて、どっちも嘘に変わりないんだし、どっちも言ってはならないんだけど、それ以上に許される嘘なんてない、ということなんだろうね。
「そしたらね。次の日、佐絢に怒られたんだ。
「私が、どれだけ振られるのを耐えたと思う? 何で納得したんだと思う? 絢女の幸せを思って振られたんだよ。それなのにあんな言い方、酷い! って。
「それこそ納得できない私は―
「そんな気を遣わせてまで、幸せになりたくないし、あの男子が初めから私に告白すれば良かったじゃん。自分の不幸の理由に他人を使うなよ! って。
「ああ、言ってしまったんだなと実感した時、私にもあんなにいい友達がいたのになと思い出した。
「二度と会えないとさえ思った。
「いや、全然全然。今も仲良いよ。そりゃあ仲直りするさ。友達ってのは仲直りの一つや二つするだろう。
「問題はその後、高校進学で分かれた後だよ。私は落ちてここに来たけど、佐絢も落ちて違う所に行っちゃった。そこで、絢女に譲った分幸せになるんだって言って、入学して一か月したかしないくらいに、彼氏ができたって。それは嬉しかった。語彙がないって思われるかな。嬉しい時って嬉しいとしか言葉にできないんだよ。
「でも三か月くらいで別れちゃった。
「何でだろ。理由は忘れちゃった。いや、本当にいたんだよ。写真も送ってもらったし、何時間話したという証明になるLINE通話のスクリーンショットも見た。
「そうこうしている内にまた、彼氏できたんだって。今度こそ上手くいきますように、って願ったのにね。
「そのまた次は、中三の子だって。素行の悪そうな見た目だったけど、佐絢はそんなことない、二人きりになったら私に甘えてくる可愛い子なんだ、って言って二か月くらいで別れた。
「その次に付き合った人との間に新しい生命を、授かったんだ。
「おめでとう。と本来なら踊って言祝ぐべきだろうが、年齢や身分、責任感を考えると単純に『おめでとう』なんて言える状況ではないだろ。それに加えて、その男は一人自主退学して逃げていった。最初は先輩なのにこんなことするのか、って思ったけど、先輩だからこんなにも軽く、軽薄に扱えるんだろうな、って。喧嘩別れじゃなくて、その先輩は一人でも支えたいと思ってたみたいだけど、親の反対までは振り切れなかったみたい。
「界隈では、その時には既にもう有名になっていたよ。酷い言われ様だった。それからは転校して今、通信制の高校に通ってる。
「っていうのが、私と佐絢の話ね。
「こんな汚い話で聞くだけでも疲れちゃった? ごめん。
「じゃあ、何で私が泣いていたかを説明しよっか。少し、恥ずかしいな。できれば聞いて直ぐ忘れて欲しいくらい。
「私は高校に入ってから、また馴染めなくなった。当然だよ、佐絢がいないから。それだけ佐絢は私にとって大事だったんだね。
「それから、私達は密に連絡を取り合うことにした。佐絢は私と違って、友達も多いとは言わないにしてもそれなりにいるし、部活強制参加の校則らしくて、部活にも入ってる。だから忙しくて会えないんだけど、LINEとか電話で連絡した。私は部活に入ってないし、他に友達いないから、それだけで十分会って話してる気がしたんだ。
「でもさ、彼氏をとっかえひっかえしていく内に、段々怪しくなっていってさ。それでも、『おかしくない?』って言えない私は友達失格だった。
「その内、疑問が確信に変わっていった。
「明らかに、おかしかった。
「部活も、友達の話も、勉強の話もしなくなった。
「世間の女子高生ってこんな感じなのかな、これが普通なのかな、って考えて調べたけど、そんな訳なかった。こんな佐絢をこのスマホ越しに想像するのが嫌で嫌で、それでいて、悲しかった。人が一人壊れていく様を、想うのは辛い。
「しかも、原因が私にあったから、私が佐絢を壊したみたいなものでしょ? もちろん後悔していて、その度に死にたくなるの。
「…重かった? それでも聞きたかったのはそっちでしょ?
「その子は、って…。育てることなんて到底できるはずもない。まだ16歳の子供だよ? 当時は15かな。どっちにしろ、無理無理。だから堕ろした。将来、東京で一人暮らししたい、って溜めてたお金切り崩して―
「殺した。
「その時の心情は残酷なことに、私には分からない。
「ん? 最近は笑いながら電話掛けてくるようになったよ。でも、それでも。私は佐絢の声を聴く度に思い出すから、追い詰められていたのかな。
「友達失格だよ、本当に。
「佐絢はとっくに、前に進んでいこうとしてるのに。
「―っていうのが私の背中にあるもの。
11
こればかりは、どうにもならない。
心の中でまだこの女の子を救うんだ、って。泣かせているのは誰だ、って幼稚で夢みたいなことを思っていた。浅はかだった。何と声を掛けたらいいのかが分からない。
もう、大丈夫だよ。
君の気持ち、分かるよ。
そんな言葉では軽過ぎる。否、僕達、発達途上な未成年には重過ぎる。特に志賀にとってはそうだろう。友達付き合いがそのまま人間としての経験値にはならないが、それでも経験不足な志賀にしてみれば、重さが実感できないくらい重いのだろう。
それならば、僕から掛ける言葉なんて重さに見合わない。心無い一言に聞こえてしまう。
それに、志賀は友達の彼氏を否定し、揶揄する言葉を使っていない。なぜなら、それはその男を選んだ彼女への罵倒になるから。包容力を願われた志賀は、彼女の考えを尊重しているのだろう。そして大方、友達付き合いが慎重なのだ。面と向かって勇気を振り絞って、ガツンと言ってあげれば何かが変わったかも知れないと思えば思う程、志賀は自分を責めたり、情けなく思ったりしてしまう。
「言ってなかったけど‟佐絢‟ってね。大佐の‟佐‟に、私と同じ‟絢‟の字なの。だから、運命だと勝手に思って話しかけた。それまで、意外かも知れないけど、同じ字の人に会わなかったから。そしたら、話盛り上がってさ、お互いの名前の意味を話した時、私も佐絢もほぼ同じ意味だったから、ますます、運命だと思って一人で舞い上がっちゃった」
そういう字を書くのか。だから一層、入れ込んでしまうのか。友達は他人じゃないなんて言う人もいるが、そうは言っても大きく見れば自分以外は皆、他人に括られる。それでも志賀は彼女を‟自分‟の範疇に留めている。
同じ字の持ち主で、同じ願いを込められた―
志賀の知る、たった一人の他人だから。
志賀の話を聞いて、何もできずに、何も変わらずに。重く湿った黒くて、泥みたいな思いが僕の心に流れてきた。
ただ何もできすに。
12
「おはよ。今日の授業でやっと前期終わりだよー。疲れたねー」
久保が登校してきた。僕もそれなりの話を挨拶代わりに話して合わせる。僕はそれ以上に高ぶっている為、通常通りに話そうと意図的にしている。これは言わばカモフラージュだ。普通の高校生を演じろ、翔太。
「え、何にやけてんの?」
おっと、心の笑みがこぼれてしまった。
「いや、今久保が言った通り、今日で前期が終わるんだよ、これがにやついていないでどうするんだよ」
取りあえず、誤魔化しておく。楽しみが留まるところを知らないので、今日一日はこの顔と付き合っていくしかないようだ。悪いな、周囲の人。
「朝から気持ち悪いな。私、プリント回す度にその顔見ないといけないの?」
いい加減にして、と志賀も登校してきた。第一声から「気持ち悪い」だった気がするが、今の僕には「ご機嫌麗しゅう」に変換されて聞こえる。ちょっと待てよ、ご機嫌麗しゅうって言われたら何て答えるのが正解なんだ。「I`m fine. And you ?」と言えばいいのか?
「違うでしょ。一手変換されたら受け手は何言われているのか分かんないよ」
「志賀さんおはよー」
「おはよう」
そろそろ、僕のにやついている訳を発表しよう。前日こんな会話があった。
「もしもし、翔太?」
「はい、翔太です。どうした?」
「急に、そう、今さっき、テレビを見ながら採点していたら、豪華温泉旅行を取り逃した芸能人が目に飛び込んできたの。それはさながら、ムンクの生き写しのような形相で」
「あれ、ムンク自身じゃないけどな」
「そこで、私は閃いた訳よ。豪華とは言わないまでにしても、低予算温泉旅行ってのはどうですか、翔太さん」
「ほう、いいね。この少し暑い今の季節に行く温泉ってのも、悪くないかもしれん」
「そう。客も少なそうだしね。学生だから夏休みの平日のどこかにしたら、ほとんど私達の貸し切りじゃない。流石私ね」
「どう?」
「僕は貯金があるから、県内の温泉までなら行けるかな。一花こそ大丈夫なの?」
「私もそれなりに貯金がある。けど、そんなに出せる程じゃないから、高級温泉以外の場所で、一泊二日程度かな。そんな所でも嫌じゃない?」
「嫌なんて思わないよ。じゃあ、どこにする?いつにする?」
「うーん、そうね。今映った所に似てる場所にしたいから、場所は私が選ばせて。日程は二人ですり合わせて」
「分かった。決まったら連絡してね」
「うん。じゃあね。私そろそろお風呂入って寝るわ」
「僕も寝る。おやすみ、一花」
「おやすみ、翔太」
それが明日。これは落ち着かない。全ての授業が筒抜けていく。
「私、次の移動教室でこの人と隣なんだよね。授業に集中できる気がしない」
「それは嫌だねー。僕も授業に集中できなくなりそう」
何か言っているようだが、聞こえないぞ。
13
後日、僕と一花は駅で待ち合わせをして、乗車して下車して、それなりに歩いた。海が綺麗に見えるこの温泉旅館は、それ程豪華ではないにしても、この景色さえ見えてしまえば全ての旅館は平らに均される。しかし、かなり歩いた僕達は外に出る力を失い、先にお土産コーナーで買い物を済ました。無事晴天に恵まれ、風も強くない。
「私、海でさびるかも」
「それはない、人間の体は水35L、炭素20㎏、アンモニア4L、石灰1.5㎏、リン800g、塩分250g、硝石100g、硫黄80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素、及びその個人の‟遺伝子の情報‟によって構成されているからね。この間、生物で習った」
「翔太の教科書だけ『鋼の錬金術師』第一巻になってるけど大丈夫?」
それは大丈夫じゃないな。ちゃんと教科書の記述を覚えよう。
「それに、‟錆び‟じゃなくて‟寂び‟って言ったのかもよ? 詫び寂び。理系の脳ミソめ」
「謀ったな」
僕達はその後、海に行って観光をした。僕の家族は旅行というものを嫌う傾向にあるので、僕はいい年になるまで旅行を学校行事の中のものだと思い込んでいた。そんな僕は当然県内の観光名所は行ったことが無く、初めてだった。学校行事の旅行は県外に行くことが多いからね。若干、この県を過小評価してきたのかも知れない。こんないい場所が県内にあったなんて、良い所じゃないか。あまりにも見どころが多過ぎてとても一泊二日じゃ回れないのが残念だが、それもまた来たくなるスパイスなのだ。今日見たいものをどれだけ見れるかだ。
かなりたくさん歩いた一花は、それだけではなく、前日までのこのプランニングや今日の分までした採点や、前期の授業の疲れでいち早くダウンした。
「ちょっと待って翔太、私、疲れちゃった」
ここで弁明させて欲しいのが、夏休み一日前までは僕はただ「一花と小旅行が嬉しくてにやけていた」だけなので、決して邪な気持ちは一切ない、ということを分かって貰いたい。実は僕は神に誓っても、旅行を楽しみに来ていたのだ。なので当然、地元の料理、大浴場、観光この三つが基本方針だろうと思っていた。しかし、ここで大浴場に行こうとして、浴衣を確認し、いざ行こうと部屋のドアノブに手を掛けたところで袖を引っ張られた僕に、非はない。誤解を恐れず言うのなら、部屋には客室露天風呂があったのを僕は確認していた。確認した上で、「流石、観光地。オーシャンビューだね」としか思ってなかった。
二人浸かると、それは見事に設計したんだなと思わせる、丁度いい距離が保てる広さの浴槽だった。
「ここから丁度、月が見えるんだね」
「そうだね。満月と三日月の中間くらいじゃない?」
月トークを持ち合わせていない僕は月の形の批評くらいしかできない。てか、月よりも隣が気になってしょうがない。もう今、正気を保つ為に心を無にしている。心で「無に」、「無に」と唱えてる。何だこれ修行か。
「…さっきから何ムニムニ言ってるの? 私そんなにムニムニしてないけど。タオル巻いてるから分かんないと思うけど、どちらかと言えばスレンダーな方」
顔が赤いのがいつもより温度の高い湯に浸かっているからか、単純に僕の失言のせいか分からない。でも九割後者のせいだと思う。
「いや、あの、ミニモニ。って言ったんだ。モーニング娘の」
「いつのトレンドよ、いつの男子高校生よ、何でこのタイミングよ!」
「いつだっていいよ、つんくは」
気が動転しているせいか、声に出ている。でも話すと落ち着くな。こんなあられもない姿でも一花は一花だって思い出させてくれる。
「そう言えば、翔太のクラスに去年同じクラスだった志賀さん、いるんだね。私、久々に連絡貰うまで気付かなかった」
「ああ、うん。いるね」
「仲良くしてあげてね。あの人友達少ないみたいだから」
「そっか。分かった。今度話してみるよ。一花から見てどんな人?」
「うーん、ペア学習で私に話しかけてくれたのがきっかけで話すようになったから、その印象が強いかな。優しい人だよ」
何だ、ちゃんと自分から友達作りにいってるじゃん。優しいかはさて置いて。
「…そう。今度話しかけてみようかな」
「はぁ、のぼせちゃうね。昨日は早かったし、明日も早いし、こんな弾丸ツアーみたいな観光でごめんね、私先に上がるから、ゆっくりしてて」
そう、らしくないことを言って部屋に戻っていった一花に僕は何も言葉を掛けられなかった。でも僕達のことを考えるとこれでも凄まじい進展なのだと思う。大丈夫。僕達なりの歩み寄り方で近寄っていければ、それでいい。
14
とある女の子の話。
その子は思春期に何かに取り憑かれたように、男を篭絡させていき、私利私欲の為なら周囲の評判をも厭わない。一方、男は自分に尽くしてくれる女の子に盲目で、評判よりも女の子を信用する。否、そう躾けられる。知らず知らずの内に、自分を中立の立場と思い込む。
しかし、白昼夢は長くは続かない。なぜなら、女の子は飽き性で夢見がち。人から人への渡り鳥。定住はしない。周囲を気にしないその女の子はある意味で、一番周囲に気を遣っているのかも知れない。
なぜ、そんなことをするのか。気になっている方も多いだろう。当然、女の子には理由があり、何か行動に表している。
自己顕示欲。
恋愛依存症。
承認欲求。
案外、その女の子には友達が少ないなりにいて、二人組を作る時には、その友達を思い出す。クラスには女の子にまつわる悪い噂が広まっている。それでも、クラスでは、誰か心優しい人がそんな女の子の友達役を担わないと、それは‟虐め‟と認識される。だから‟友達‟なんていなくて、そこにいるのは‟ボランティア‟だ。役職と肩書の違い。クラスと学校外の違い。
その女の子は可愛いのかって?
美人を彼女に持っている男を女の子は難なく攻略して見せ、先輩だって容易に落とせる。君は自分が生きてきた中で知っている最強の兵器に、「可愛い」とは言わないだろう。
しかし僕は、それでも字に込められた‟願い‟らしくあった彼女のことを、時折思い出す。